これが、わたしたちの

2005/11/29

 わたしは高明のことが好きなのだと思っていた。


「好きな人ができたんだ」
 高明が、そう言った。
 白い食器。
 かちりかちりとナイフとフォーク。
 ふたりが黙せば、沈黙のリビングダイニング。
 いつも通りの、ふたりきり。
「おや、おめでとう」
 わたしが言うと、高明はまぶしそうに笑った。
「おめでとう、なのかな?」
「好きな人がいないより、いた方がいいんじゃないかな」
「そうかな」
 多分ね、と言ってわたしはハンバーグを口に運んだ。
「誰? わたしの知ってる人?」
「赤梨さん」
「りかちゃん?」
 知っている人だ。
 ふわふわの、やわらかそうな髪、白い肌。挨拶をするとワンテンポ遅れて笑顔をくれるりかちゃん。わたしにとっては友達の妹で、高明にとっては委員会の後輩。そういえば、何度か高明とふたりで帰る姿を見かけたことがある。
「告白するの?」
「した方がいいかな」
「うん、タイミングを間違えないようにね」
 わたしは、本当に、心の底から思ったのだ。
「うまくいくといいね」
「ありがとう」
 高明が幸せになりますように、と。
 そして自分で驚いた。わたしは、高明のことが好きだと思っていたのに、高明が他の女の人と付き合うことを願っている。いつか高明に素敵な彼女ができて、その時わたしはきっと泣くのだろうと思っていた。心が破れそうで、すかすかで、泣いても泣いても足りないくらいに涙が出てくるのだと、そう思っていた。
 でも、今わたしは泣いていない。
 高明の照れた顔を見て、頭を撫でてあげたいような気持ちになった。うまく行くといいね。本当に。
「かおり、何でにやにやしてるの?」
「……高明の口元にケチャップがついてるからだよ」
 高明がケチャップをぬぐいに台所に立ったとき、リビングのドアが開いて、みかこさんが入ってきた。
「ただいまー!」
「おかえり」
「おかえり、みかこさん」
 高明もわたしも、わたしの母をみかこさんと呼ぶ。高明は昔、おばちゃんと言って怒られたからで、わたしは父がそう呼ぶものだから、そう呼ぶ。
 みかこさんはわたしのお皿からひょいっと手でつまんで、ハンバーグのかけらを食べた。
「んー! 絶品! 高明くん日に日に料理上手になっていくね! かおり、高明くんを離しちゃだめよー。こんないいお嫁さん、他にいないんだから」
「残念ながら、手遅れみたいよ」
 どういうこと? と問うみかこさんに、高明が言った。
「俺、好きな人ができたんです」
 あらら、と言って、みかこさんはわたしのにんじんを食べた。
「あんたたちはくっつくと思ってたわー。もう! かおりがしっかりしてないから」
「みかこさん、食べすぎ。ちゃんとみかこさんの分もあるんだから、自分の分を食べなさい」
 はーい、と言ってみかこさんは部屋を出て行った。目を合わせて、わたしたちは苦笑した。

「じゃあ帰る」
 高明を、玄関まで見送る。
「うん、今日もありがとう。ハンバーグ、おいしかった」
「おう」
 高明はいつものように軽く言って、ひらひらと手を振った。
「あ」
「ん?」
「告白、いつするの?」
「あー、えーっと、あんまり考えてないけど、クリスマスまでには……」
 そうか、クリスマスが近い、のか。父さんもみかこさんもどうせ仕事だろうし、クリスマスだっていつもの日々と変わらない。……でも、恋人同士にとっては違うのだろう。
「そか」
「どうかした?」
「いや。うまくいくといいね、お兄ちゃん」
「ありがとう妹よ。祈っていておくれ」
 わたしもひらひらと手を振った。

 わたしは時々高明をお兄ちゃんと呼び、高明はわたしを妹と呼ぶことがある。わたしたちに血のつながりは無い。無いけれど、家が隣同士、共働きの親を持つわたしたちは小さなころから一緒に育てられ、高明は四月生まれ、わたしは三月のおしまいの生まれで、だから、お兄ちゃんと、妹。小学三年生の高明の誕生日まで、わたしは本気で兄妹だと思っていた。
「高明、いつまで本当の兄妹だと思ってた?」
 高校に入ったとき、わたしは聞いたことがある。高明は、着慣れないブレザーのボタンを留めたり外したりしながら答えてくれた。
「小二くらいかな」
「早いね。わたし、小学三年生」
 気づいたところで、わたしたちの生活は変わらなかった。いつしか、晩ご飯を作るのは高明の仕事、その後片付けはわたしの仕事になってしまった。平日は、ふたりで晩ご飯を食べる日。
「当番、代わろうか?」
「いや、いいよ。俺料理好きだし」
 その通り、高明の方がずっと料理が好きで上手なことはふたりとも知っていたから、代わろうか? と言ったのだって言ってみただけだ。わたしが作るのは、本当に時々だけ。みかこさんが言うように、最近高明の料理はどんどん上手になっていると思う。多分それは性格の問題なのだ。わたしはにんじんのグラッセを作るとき、面取りをしたりはしない。
 そんなに長い間考え事をしていたつもりはないのに、寝返りをうって時計を見たら二時近かった。上半身を起こして部屋を見回した。そういうことは時々あるのだけど、目に入る景色がことごとく遠くに見える。自らの手さえ、やけに遠く。
 高明を好きだと思ったのはいつのころからだろう。
 小学生のころはやっぱり兄妹みたいだった。ふたりでお使いに行ったり、動物園に行ったりしていた(動物園は、卒業旅行のつもりだった)。
 中学生のころ、バレンタインデーに高明をからかったことがある。「チョコ欲しい?」「うん、欲しい」「どうしようかな」「やっぱり貰えないと寂しいもんなんだよ」わたしは高明にチョコをあげて、でも高明はわたし以外の人からもチョコを貰っていた。わたしは、ネガティブな気分にはならなかった。人気のある兄で良かったと、誇らしく思ったことを覚えている。
 ……あぁ、思い出した。高校に入ってからだ。今から一年位前、高校一年生のころの冬のこと。まりに借りていたCDを返しに行ったときのことだった。まりと高明は同じクラスで、だけど学校で高明と話すことはもう滅多になくて、わたしはもっぱらまりと話すためだけにそのクラスを訪れていた。
 高明は、男友達と笑い合っていた。どんな話題だったのかは知らないけれど、とてもおもしろそうで、四、五人くらいの男子が話に夢中だった。わたしは高明を目で追い、そして、わたしは声をかけたりしなかったのに、高明はふとこっちを向いて微笑して、片手を挙げた。見慣れているのに懐かしい笑顔だった。あんなに夢中で話していたのに、どうして気付いたのだろう。わたしは、まりに顔が赤いと指摘されるくらい、赤面した。その時どうしてだろう。不思議なことに、わたしは高明を、守りたいと思った、守られたいと思った。そうして、それが恋だと思った。
 恋では、なかったのだろう。それは好きという気持ちとは違う、別の何かだ。高明がわたし以外の人を好きだと聞いても悲しくはなくて、胸にあるのは多分寂しい、という感情。小さなころから一緒に育ってきて、それが離れて行ってしまう、という僅かな寂しさ。泣くほどではないし、切ない映画を見終えたときのような、微かな空虚。アルバムを見て昔語りをするような、卒業式の練習をするような。
もう一度横になったら不意にわかってしまった。この気持ちは退屈な夏休みに似ている。その夏休み、高明たちは一週間田舎に行っていて、わたしはその間、退屈だった。夏休みが退屈だなんて初めての経験で、予定を早めて帰ってきたりしていないかと、高明の家を毎日覗いていた。似ている。わたしの知らない高明の世界があるということ。それを初めて知った日に。
 悲しくはない。涙は出ない。高明とりかちゃんが、うまくいくように願っている。本当に。


「かおりかおり、かおりちゃーん?」
 昼休憩。あゆみがわたしの名前を連呼している。
「一度で聞こえるよあゆみあゆみのあゆみちゃん」
 机に伏せて目を瞑っていたわたしは、小さくつぶやいて顔をあげた。
「呼ばれてるよ」
「誰?」
「りかちゃん。久しぶりに見たけど、かわいくなったねぇ。あたしはびっくりだ」
 名前を聞いて、少しだけ驚いた。赤梨さん。赤梨りかちゃん。高明はもう告白したのだろうか。
「かおりさん」
 廊下の壁に背中を預けて、りかちゃん。ふわふわの髪を今日は結んではいないみたい。
「りかちゃん、久しぶり。まりは元気?」
「あー、元気ですよ。もうすぐ大会だから今ちょっと忙しそうですけど、終わったら遊びに来てください」
「うん」
「えーっと、えっとですね。突然ですけど」
 りかちゃんは言った。
「うわさ、知ってますか?」
「うわさ?」
「高明さんの、うわさです。高明さんが、もうすぐ告白するって」
 しまった、とわたしは思った。わたしがそう思う理由なんて全然無いのに。
「そんなうわさが流れてるの?」
「流れてるみたいです。どれくらい広まってるかはわからないですけど」
 りかちゃんはまじめな顔をしてうなずいた。わたしも思わずうなずいた。
「かおりさん、いいんですか?」
「いいんですか? って、どういうこと?」
「だって、かおりさんと高明さんは、仲いいじゃないですか。みんな、ふたりが付き合ってるって思ってます」
「ないよ。付き合っては」
「でも、好きじゃないんですか?」
 りかちゃんはさらりと言った。素直にこういうことを言えるなんて、いい子だと思う。素敵な子だ。わたしは思わず微笑んでしまう。
「そう思ってたけどね、やっぱりわたしは兄妹みたいにしか思えないみたいでさ」
 だから、とわたしは言った。
「だから、高明が誰かと付き合っても、いいよ」
 りかちゃんは少しだけ悲しそうな顔をして、それから、ちょっとこっちに、とわたしの手を引いて歩き始めた。廊下の端の曲がり角まで来て、りかちゃんは止まった。廊下の先は家庭科室とか、美術室とか、副教科の教室しかないから人通りは少ない。ゼロじゃないけど、内緒話はしやすい場所。
「あのですね、かおりさんには隠そうとしても無駄だってまりが言ってたんで隠さずに言うんですが、高明さんが告白する相手、わたしらしいんです」
 あららー。高明、わたしは何も言っていないよ。何も言っていないけれど、うわさになるほど広まっている。
「えっと、りかちゃんは、彼氏いるんだっけ?」
「いないです、残念ながら。残念ながらいないんです」
「高明に告白されるのは、迷惑?」
 いえ! とりかちゃんは強く言った。ふわりと髪の端が揺れる。暖かそうな髪。
「迷惑じゃないです。迷惑と言うか、わたし、その、好きですから。好きなんです高明さん」
 りかちゃんはうつむいて、それから顔を上げ、にっこりと微笑んだ。顔が赤くなっている。好きですから。わたしの胸が高鳴った。早鐘を打っている。高明、告白は成功みたいだよ。おめでとう、恋人同士だ。
「えっと、その、だから、もし、高明さんがわたしに告白してくれたとして、かおりさんはいいのかな、って思って」
 ――わたしは、高明をここまで束縛していたのだろうか、と不安になる。高明がりかちゃんを好きで、りかちゃんが高明を好きで、本来なら問題は無いはずなのに、わたしが迷惑がる、と思われている。わたしには、ふたりを邪魔する権利があるように。ないよ、りかちゃん。わたしにはないんだよ。そんな、権利。
「大丈夫だよ。うまくいくといいね。何か手伝おうか?」
「はい、あ、いえ、大丈夫です。かおりさんがいいなら、いいんです……」
「わたしがだめって言ったらどうするの?」
「諦めます」
 りかちゃんは微かに笑ってそう言った。諦めます。
「おふたりはやっぱりお似合いで、わたしはお邪魔できないんです。おふたりが相思相愛なら、わたしは諦めます」
「兄妹! だから」
 大丈夫だよ、とわたしは言った。
「お幸せに」
「ありがとうございます」
 りかちゃんは、笑顔で素直にそう言った。うん、高明、りかちゃんはいい子だよ。わたしの胸が、どきどきしてしまうくらいに。

「おかえり」
 教室に戻ったら、あゆみがわたしの席で、ぐんにゃりと机に伏せていた。あごを机に突いて、頭だけ起こしている。首が痛そう。
「何のポーズ?」
「かおりの真似」
 わたしはそんな格好をしたことはないけど、何も言わないであゆみの後ろに回って、肩を揉んだ。
「おぉありがとう。冬になると何故か肩が痛いよ」
 あゆみが身体を起こす。
「で、何だって?」
「何が?」
「りかちゃん」
「高明が、もうすぐりかちゃんに告白するんだって。うわさになってるんだってさ」
「あー、ついに本人にまで届いたかー」
「知ってたの? うわさ」
「知ってるよ。かおりと高明が破局の危機! って」
「付き合ってないんだけどね、わたしたち」
「周りからはそう見えないもんなんだよ。あんたたち、有名なカップルだもん」
 代わったげる、と言ってあゆみは席を立った。代わりにわたしが座る。
「有名? 何で?」
「何で、って、高明くんはそりゃ、あの性格だし面倒見いいし、人気者でしょ」
「わたしは?」
「あんたも有名だよ。知らなかったの?」
「知らないよそんなの。何で、有名? わたし、目立つようなことしたっけ?」
 あゆみがわたしの首元を押すので、わたしはうつむいた。
「あんたさ、今週その、みつあみで、眼鏡なのは何か理由があるの? 目、いいでしょ」
 みつあみで、と言いながら、あゆみはわたしの二本のみつあみをくいくい軽く引っ張った。
「伊達だよ。これ」
 黒い太いフレームの、伊達眼鏡。時々眼鏡をかけたくなるけれど、視力は悪くないので本物はかけられない。だから、伊達眼鏡。
「何でわざわざ伊達眼鏡?」
「今週は、そんな気分だったから」
「んーっとね、それだよそれですよかおりさん。その、何て言うんだろうね、みつあみ眼鏡って、いかにも優等生! って感じじゃない?」
「実際成績も上がればいいんだけどね」
「上がるんならわたしもかけるよ伊達眼鏡。中間テストの時だけ眼鏡屋大繁盛、じゃなくて。そうじゃなくてね? そのわざわざ優等生ぽい格好をするのとか、幼馴染カップルとか、その辺が有名になる理由なんだと思うなあたしは」
 わたしが有名で、高明も有名で、……有名って何さ。別に高明がりかちゃんに告白しようと、わたしがそれをどう思おうと、別にどうだっていいことのはずだ。
「まぁぶっちゃけね、あんたらはもてるわけさ。気になる人も多いんだよ」
 あゆみは二の腕辺りまでマッサージしてくれながら、そう言った。
「わたし、もてるの? でも告白とか、されたことないよ」
「そりゃあれだよ、高明くんがいるからだよ」
 これから増えるかもねー。あゆみは軽い調子でそう言って、ばしんとわたしの肩をたたく。はい、おしまい、と。
「でさ、実際どうなんですか。かおりはどう思ってんの」
 あゆみはわたしの前の席に横向きに座った。
「いやさ、わたしは、好きだと思ってたんだけど」
 好きだと思っていたけれど、胸に残る寂しさは、どちらかというと家族愛みたいなものだと思う、というようなことを言ったら、あゆみは、
「どうなんだろね、それは」
 とまじめな顔をした。
「長い間一緒にいたから、兄妹みたいに思ってるけど、でもその中に恋愛がなかったとは言えないんじゃない?」
「どうかな。でも、もう、りかちゃんにゴーサイン出しちゃったから」
「ゴーサイン?」
 先ほどまでのりかちゃんとのやりとりを話したら、あゆみは更にまじめで、難しい顔をした。うつむいて、机の真ん中を凝視している。普段はどこか飄々としているくせに、あゆみは時々びっくりするくらいまじめな表情を見せる。こういうときのあゆみを見ると、とある小説に出てくる探偵を思い出さずにはいられない。今にも、『ひどく悲しい事件です』とでも言い出しそうな気がする。
「よしわかった、かおり、今日うちに寄ってきな。漫画貸したげる」
「漫画? 何で?」
 あゆみは探偵みたいに微笑むだけで答えてはくれなかった。

 学校帰り、あゆみが貸してくれたのは、三冊の少女漫画だった。
「幼なじみものだから、高明くんに読ませてあげるといいよ」
 高明に読ませる前に読んでみたけど、なるほどこれは幼なじみものだ。まぎれもなく。幼なじみの男女がいて、どちらかが素敵な別の相手を好きになり、付き合いかけるのだけど、やっぱり幼なじみの魅力に気付いてふたりは付き合う、というパターン。みっつの漫画はどれもびっくりするくらい同じ構成をしていた。
 読んで、わたしは少し腹立たしく思った。別に幼なじみのカップルが出来上がるのはかまわない。気心の知れた相手は、恋人としては正しい選択肢のひとつかもしれない、でも。『付き合いかける素敵な別の相手』がかわいそうだ。それは後輩だったり学年中の憧れの的の先輩だったりばらばらだったけど、必ず最後には振られてしまう。彼ら彼女らは何も悪くなくて、純粋に好き成分だけで構成されているのに、そして自身の素敵さでうまくいきかけるのに、幼なじみたちの絆の前に敗れてしまうのだ。落ち度も無くて魅力もあって、それでもうまくいくとは限らないのが恋なのだと言われれば何も言い返せないけれどでもそれでも、少しくらい報われたっていいではないか。
 あゆみは何も言わなかったけど、高明に読ませようとする狙いはひとつだと思う。幼なじみの魅力に気付け、ということ。あゆみは多分、わたしと高明は両思いだと思っていて、その魅力に気付け、と言いたいのだ。それはおせっかいと言えばそうかもしれなくて、でもわたしはこれを高明に見せようと思った。素敵な第三者を悲しませるな、ということを伝えるために。
 今日は高明の家で晩ご飯なので、わたしはカーディガンを羽織って漫画を持って、高明の家に向かった。チャイムは鳴らすけど、合鍵で勝手に入るのがわたしたちの習慣。
「お、早いな。いらっしゃい」
 高明は、自分の部屋でベッドに寝転んで漫画を読んでいた。
「高明、これ読んで、そして話をしよう」
 漫画を差し出すと、高明は起き上がってそれを受け取り、不思議そうな顔をした。
「少女漫画? 何で? 俺、そろそろ飯作らなきゃいけないんだけど」
「ご飯、わたしが作るから、読んでて」
「お、珍しい。じゃあたまには頼んだぞ、妹よ」
「うん、任せて、お兄ちゃん」
 立ち上がって、ドアを閉めて、階段を下りながら、わたしはなんとなく、高明のことをお兄ちゃんと呼ぶのは最後のような気がした。呼んではいけない気がする。一緒にご飯を食べる習慣も、もうすぐ終わりにしなくてはいけない。例えばわたしに彼氏ができて、その彼氏が幼なじみと毎日晩ご飯を食べていたら、と想像する。心臓の周りの血が赤紫になったみたいな気分。嫉妬。止めて、わたしの知らない女の人と笑い合わないで。おいしいと、言わないで。
 ……だから止めた方がいいのだ。りかちゃんのために、高明のために、ふたりの幸せのために。兄妹は、友達距離に離れなくてはいけない。
 高明んちの大きな銀色の冷蔵庫の中を覗いていたら、目がじんわり熱くなってきた。あぁだめだ。泣いてはいけない。たまねぎを切らなきゃ、とわたしは思った。たまねぎを切って、おいしく料理して、ふたりで食べよう。

「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
 料理は、わたしにしてはうまくできたと思う。鯖を焼いて、大根おろし。たまねぎはお味噌汁に入れてみた。お味噌汁に入れると、たまねぎは甘くなることをわたしは知っている。
「だいぶ、腕を上げたな妹よ。うまい」
「そう? よかった。まだまだ高明にはかなわないけどね」
 高明の作るお味噌汁より随分甘くなってしまったし、鯖は焦げが目立つけれど、高明は褒めてくれた。
「漫画、どうだった?」
「どう、って言うか……。かおり、怒ってる?」
「……わたしが? どうして?」
「いや、幼なじみとくっつけ! って言われてるような気がして。俺が赤梨さんに告白するって言ったの怒ってるのかなって」
「怒ってないよ。幼なじみとくっつけ、というか……、むしろくっつかないで、って言いたいな」
「俺とかおりがくっつくな、ってこと?」
「うん。りかちゃんが、かわいそうでしょう? 『春笑いの神さま』だったら明日香で、『ひまわりDays』だったら滝川先輩で――」
「『なないろの秘密』だったら陽平くん、か。なるほど」
「かわいそうでしょう?」
「うん」
「わたしに、戻ってこないんだよ、高明。妹離れして」
 わたしは笑いながら言った。笑いながら、高明の目を見ないままで。
「わかった」
 と、高明は言った。戻ってこないよ。
 ――りかちゃんに、高明の料理の好みを教えた方がいいだろうか。あぁでもわたしが知っている高明の好みなんて高が知れているし、りかちゃんが高明のお弁当を作るより、高明がりかちゃんに作ってあげる方が多いかもしれない。
 余り、でしゃばらない方がいいかもしれないな、と思う。わたしの出番はそろそろおしまいだ。
「かおり、どうかした?」
「ん? どうもしてないよ。何で?」
「いや、止まってたから」
 ……あぁ、ほんとだ、箸をくわえたまま止まっていた。
「何でもないよ。味噌汁、もう少し辛い方がいいかな、って」
「たまねぎ入れちゃうとどうしても甘くなるよなー。俺はどっちも好きだよ」
「そう? わたしは、もう少し辛い方が好きかな。たまねぎは、入れないようにする」
 食べ終わって、わたしたちはごちそうさまを言った。
「うまかったよ」
「よかった」
 もうすぐ最後だよ高明。最後の晩餐まではあと少し。高明が告白したら、おしまいだ。


 次の日の朝、学校へ行く途中、何故か息の白さに目がいった。息が白くなったのなんてもう何日も前だというのに。ほー、と息を吐いてはそれを眺め、危うく電柱にぶつかりそうになりながら学校まで歩いた。
「おはよう、寒いね」
 教室に入り、挨拶をしたわたしに、あゆみは机に伏せたまま片手だけを挙げてだるそうに挨拶してきた。
「どしたの?」
「んー? いや、ね、クリスマスが近いな、と思って」
「クリスマスが近いと、何でだるそうなの?」
 あゆみは身体を起こして、じろりとわたしを睨んだ。
「察してよ! あたしは、彼氏が、い・な・い・の!」
「別に、彼氏がいなくても、ただの年末じゃない」
「そりゃあね、そう思いたいけどね、でもほら、なんかさ、プレッシャーを感じるわけよ。恋人と過ごすべき日、って感じがしない?」
「どうだろ」
「あんたはどうすんの? 今年」
 あぁ、そうか、そういえばそうだ。高明はきっとクリスマスをりかちゃんと過ごすつもりだと思う。あゆみが荒れるように、確かにクリスマスは恋人と過ごす日というイメージがある。わたしは別に、過ごすべきだ、とまでは思わないけれど、過ごせればロマンティックかもしれないとは思う。クリスチャンでなくとも、何となく。他所の神さまの誕生日という理由だけで、みんなあんなに楽しそうなのだ。きっとそれは悪いことではないはず。
「キリストは神さまじゃないよ。人間代表」
「そうなの? 詳しいね」
「……調べたのよ、昨日。無かったよ。どこにも無かったんだよ!」
「何が?」
「恋人と過ごす日、なんて記述。外国では家族で過ごしたり、教会に行くみたい」
 だからね、とあゆみは続けた。
「彼氏がいないからって、別に卑屈に思う必要はないんだよ?」
「そうね。じゃあそんなに荒れなくてもいいじゃない」
 あゆみは、ふぅ、とため息をついた。
「そうなんだけどねぇ……」
 あゆみに素敵な彼氏ができますように、と祈るのはおせっかいだろうか。わたしは魔法使いではないし、守護してくれる神様も多分いないので、祈るだけでは何も変らないかもしれない。でも、そうやってひとりひとりの祈りが積み重なっていったら、その時はわからないと思う。何の根拠もないけれど、海に降る雪を見たり、夜の車に乗ったりしたとき、そう思う。
「かおり」
 自分の席について教科書を取り出していたら、あゆみが目の前にいた。いつの間に、ってくらい自然に目の前にいた。
「何?」
「クリスマス、寂しかったらあたしと過ごそう。まりも誘って、ひとり身同士で慰めあおう」
「え? でも」
「いいから、もし寂しかったら、だから。無理にとは言わないから」
「え、あ、うん」
 真剣な顔したあゆみを見たらわかってしまった。気遣ってくれているのだ。大丈夫だよあゆみ。少し、寂しいだけだから。そしてそれは、兄妹としての寂しさだから。
「ありがとう」
 聞こえたのかそうでなかったのか、あゆみは自分の席に戻って、まただるそうに机に伏せていた。


「クリスマスはデートだよね」
 わたしが聞くと、高明は口元を複雑な感じにゆがめて、あぁあれは照れた時の笑い方だ。わたしも口元だけで笑ってパスタを口に運んだ。今日の担当はやっぱり高明で、ペペロンチーノとミートスパゲティ。
「うまくいけばね」
「みかこさんたち、二十二日と二十三日が休みなんだって。例年通り」
「あ、うん。じゃあ、その日は家族で食事とるんだな。多分、俺んちもそうだと思うから」
 仕事が大好きな両親たちは、大抵二十四日と二十五日に仕事を入れてしまう。それは毎年のことで気にはならないけれど。
「告白は、いつするの?」
「明日か、あさって。映画に誘いたいんだ、二十四日」
 わたしは、高明にわからないように、お腹で、深呼吸をした。
「そっか。うまくいくといいね。二十四日、ごはん、いいよ。わたし、一人で食べるからさ。デートしてきなよ」
「うん。サンキュ」
 明かりにきらめくフォークとスプーン。
 白いお皿とパスタの鮮やかな色彩たち。
 光を吸い込むコップの水。
 高明の沈黙。
 わたしの沈黙。
 静寂。
「……かおり」
「ん?」
「あー、えっと、何でもない」
 高明は何でもないと言いながらコップの水をごくごくと飲んだ。言いよどんだ言葉を流し込むかのように。
「しっかりおしゃれしていくんだよ」
「ん」
「ごちそうさま」

 部屋に戻った途端、わたしの携帯電話が鳴った。高明からの、電話。
「どうしたの?」
「砂原ってわかるかな? 俺の友達の」
「わかるよ。あの眼鏡の人でしょう? 弓道部の」
 話したことはないけれど、背が高いので目立つ人。
「そう。そいつに言われたんだ」
「何を?」
「かおりの気持ちをちゃんと確かめておけって。俺、赤梨さんに告白するって言って、かおりを傷つけた? 俺は、今ちょっと複雑な気分なんだ」
「複雑?」
「赤梨さんは好きなんだ。でも、かおりに何となく悪い気がするんだ。どうしてだろ」
 わたしはベッドに座って、壁にもたれた。
「りかちゃんは、どんな風に好きなの?」
「どきどきする。たくさん話した日には、家に帰って思い出して、にやにやしてる。……変かな?」
「いや、変じゃないと思うよ」
 目を瞑って息を吸い込んで、それからゆっくりと言った。
「……高明はね」
「うん」
「わたしとずっと兄妹で、急に兄離れしなくちゃいけなくなって、わたしに悪いかな、って思ってるんだよ」
「俺がかおりを兄離れさせたから、ってこと?」
「うん。でも大丈夫だよ高明。わたしは少し寂しいけど、兄離れしなくちゃいけない、っていう寂しさだから」
「……うん」
「前も言ったでしょう? わたしに戻ってこないようにね。りかちゃんを幸せにするんだよ」
 わかった、と高明は言った。それだけだから、と電話を切る。
 複雑、とわたしに言うところは、りかちゃんの素直さに似ていると思う。あのふたりならきっとうまくいくだろう。取れたてのやさしさを丁寧に送り合って、けんかをしても素直に謝るからすぐに仲直りをして、それは恋人と呼ぶにふさわしい、素敵な関係だと思う。
「お似合いだよ、高明」
 耳元で、声が余韻を残している。


 クリスマスは、毎年ふたりで過ごしていた。小さな頃からそうしてきたし、不自然だとは思わなかった。サンタクロースがいたころはプレゼントを自慢し合って褒め合ったし、そうでなくなってからはお互いにプレゼントを贈るようになった。プレゼントと言ってもたいしたものを買えるわけではなくて、例えば去年はエプロンをあげたし、その前は欲しがっていた両手用のミトンだった。去年わたしは工具セット(ドライバーとか、六角形のねじを締めるやつが入っている)を貰った。ずっと欲しかったもので、自転車を直すのに使っている。贈ったり贈られたりするものは、実用品が多い。
 今年はプレゼントを贈らないでおこうと、そう思ったけれど、これくらいなら許されるんじゃないかと思い直した。想像してみる。わたしの好きな人が、幼なじみの女の子からクリスマスプレゼントを受け取る。嬉しくはないけれど、クリスマスぐらいだったらいいんじゃないかと思う。例えば、その、指輪やアクセサリでなければ。いつもみたいに、実用品なら許されるような気がするのだ。
 あゆみに言うと何か言われそうだったので、ひとりで街に出かけた。一度家に帰るのが面倒くさくて、制服のまま。街はすっかりクリスマス模様だった。クリスマスの色と明かり、言葉、それから漂う空気。夕日が沈めばもっとクリスマス一色になるのだろう。わたしは特に目当てもなくふらふらと歩いた。最近欲しがっているものは何だったろう。いい包丁を欲しがっていたけれどわたしの財布の中身では買えないし、それに、晩ご飯を一緒に食べないのなら何となく不自然だ。
 明日かあさって、と言っていた。今日だろうか。今頃だろうか。今、学校のどこかで、あるいは帰り道で、好きです、と。
 プレゼントには、フォトフレームを買った。銀色のすべすべした、写真が十二枚も入る、ぱらぱらめくるタイプの写真立て。ふたりの写真を飾るといい。

 今日が最後の晩ご飯かと思っていたけれど、
「まだ」
 と、高明は言った。まだ、告白してないんだって。
「心臓、持たないかもしれない」
「大丈夫だよ。落ち着いてね」
「がんばる」
「このじゃがいもおいしいね」
「おう。味がよく染みてるよな」
「高明」
 何? と高明は言った。
「明日、わたしが晩ご飯作るよ」
「お、ほんと? 珍しいね。この間も作ったのに。いいの?」
「うん」
「じゃあ頼んだぞ、妹よ」
「……うん。任せて。高明」
 明日が、最後。おめでとうと言って、ご飯を食べて、最後にしよう。

「あれ、みつあみ止めたの?」
 あゆみが言った。今日のわたしは、髪も結んでいないし、眼鏡もしていない。
「うん。目立たないようにするんだ」
「ほー。あたしはまた、もっとすごい方向に行くのかと思ってたよ」
「すごい方向?」
「ネコ耳とか」
「何でネコ耳?」
「高明くんがりかちゃんと付き合うなら、あんたもひとり身でしょ? 彼氏募集の為に、より一層目立つ格好をするのかと思ってさ」
「残念ながら、しないよ」
 今のわたしには恋が何かよくわからなくて、だから彼氏が欲しいだなんて思わない。恋だと思っていた気持ちは違ったみたいで、そういうよくわからない気持ちのまま誰かとつき合うことはできないし、だからわたしにできるのはせめて、ふたりの邪魔をしないこと。わたしに対して罪悪感を感じたり、遠慮したりしないために、わたしは目立たないようにしようと思う。ふたりを祝福する群衆に紛れ込んで、そうしてふたりに見つからなければいいと、そう思う。


 晩ご飯はカレーにした。確か、高明が最初に作ってくれた料理がカレーだったと思うから。最後にはふさわしい。切って、炒めて、煮込んで、ご飯も炊き忘れないようにスイッチを入れ、おいしそうなにおいがしはじめた頃に高明が帰ってきた。
「おかえり。もうすぐ食べられるよ」
「あ、うん」
 高明は、じっとわたしを見つめた。美術館で、絵を見るような視線。
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ。あー、腹減った!」
 どこか、変な様子。だけど服を着替えて戻ってきた高明はいつもと同じだった。
 どうだった、とは聞かなかった。聞かなくてもわかっていたし、多分さっきまでの変な様子もわたしに罪悪感を感じているからなのだろう。今日は兄離れの日だから。そんな優しさ、要らないんだよ高明。
 カレーをついで、サラダを冷蔵庫から出して、ふたりで向かい合って座って、いつものように言ったいただきますのその直後、高明が言った。
「ふられた」
 一瞬、意味がとれなかった。ふられた、ってどういう意味だっけ? って。理解して、これは高明の冗談だと思った。
「ふられた、ってりかちゃんに?」
「うん」
「え、だって……」
 だって、りかちゃんは、高明のことが好きだと言っていたのに。わたしがどきどきするくらい、赤い顔をして好きだと言っていたのに。
「何か、変なこと言ったの?」
「いや……普通に好きです、って」
「りかちゃん、何て言ったの?」
「かおり、ごめん。もう少し、考えたいから」
 高明は、沈んだ声で言って、ゆっくりとカレーを食べた。
「あ……うん、ごめん」
「いや……」
「……」
「カレー、うまいよ」
「……うん」
 カレーが本当においしかったのか、わたしにはわからなかった。喉が渇いて仕方がない。

 高明の家から帰ってきて、わたしは自分の部屋で、自己嫌悪の嵐だった。新幹線が通り過ぎた後みたいに、風が遅れて来た。
 わたしは、
「最低だ」
 明かりを点ける気にもならなくて、暗い部屋の中つぶやいた。高明がふられたと聞いて、わたしはほっとしていた。高明が田舎から帰ってきたときのように、もうこれで大丈夫だという気分。幸せを、願っていると言ったのはどこの誰だったか。ほっとする理由なんて、あってはいけないのに。いつか兄離れをしなくてはいけない、それは確かなことなのに、だったら安心してはいけないのに。独占、したいのだ。兄離れなんて、欺瞞だ。本当の兄ではないと、気付かなければよかった。

 あぁ、もうだめだ。
 本当は、何もかもに、わたしは気付いていた。気付いていて、理由をつけて、それを隠していた。もうわたしは認めなくてはいけない。理由をつけて、自分をだまして隠し続けられていたのに、ほっとしてしまった。もう無理だ。漫画を見せたのは、高明に戻ってきて欲しかったからだ。わたしは離れていって欲しくはなかった。
 でも、それでよかったはずなのだ。理由が、高明にさえ通じれば、それでよかった。りかちゃんを悲しませないでという言葉がどんなに傲慢なものであろうと、理由にさえなっていれば。高明が、わたしの気持ちを兄離れの寂しさだと誤解してくれれば、何もかもがうまくいっていた。
 うまく行っていたのに、高明の嬉しそうな顔を見て、おめでとうと言う予定だったのに。ゆがんだ形でも、わたしは自分を殺せていけたのに、どうして、どうしてりかちゃんは高明をふったのだろう。ふたりがうまくいっていたら、開き直って、本当は離れていって欲しくないと自覚しても、貫き通せるつもりだったのに。後悔する覚悟だってあったのに、押し殺して、ふたりを祝福する自信はあったのに、どうして。
 りかちゃんに聞いてみよう。会って、どうして高明をふったのか、聞かなくてはいけない。



 次の日は、いい天気だった。晴れ渡って雲少なく、潔い空気。何重にも目が覚める朝。

 廊下では話しづらくて、わたしはりかちゃんを呼んで、中庭に来てもらった。
「わたしも、かおりさんにお話があります」
 教室の前でりかちゃんはそう言うと、それからは何も言わないでわたしの後ろをついて来た。
 風が冷たくてその分誰もいない、冬の昼間の中庭。葉を落とした木々がところどころに植えられている。
「かおりさんのことを、どう思ってますか、って聞いたんです」
 りかちゃんは言った。
「高明さんは、守りたいし、守られたい、って言いました。家族みたいなものだ、って」
 りかちゃんは、わたしの目を見る。
「高明さんは、わたしに好きと言ってくれました。でも、好き、より守りたいし守られたいっていう言葉の方が重くて大きくて、強いです。わたしはそう思いました」
「好きより強いの?」
「強いです。だって、それって、必要としているってことじゃないですか。お互いがお互いを。一方的な関係じゃなくて、対等で、相手のことをちゃんと考えてて、それはとても幸せな関係だと思います。好きってのは多分、うまく言えないですけど、一方的なもので、お互いが必要としてるってのには敵わないんです」
 ふられたのは、と、りかちゃんは言った。
「ふられたのは、わたしの方ですよ」
「好きより大きいから?」
「そうです。わたしに対する気持ちより、かおりさんに対する気持ちが大きいと思ったから、形の上ではわたしがふりましたけど、わたしは負けたんです」
 重い。負けた。必要とする。単語が浮かんでは消えないで留まるイメージ。心の場所がわかる。胸が痛い。心臓が痛い。
「かおりさんは、どう思ってますか?」
「わたし、は、わたしも、守りたいし、守られたいって」
 そう、思ったのだ。それは確かに思っていて、ごまかそうとすらしなかった気持ち。兄妹の情だと思っていたのに。
「それは兄妹の情じゃないです。超えてます。かおりさんは、高明さんが好きで、必要としてるんです」
 言われて、あぁそうなんだ、と思ってしまった。
 高明を、わたしは。

「りかちゃん」
「かおりさん、わたしを、かわいそうだと思わないでください。謝らないで」
「どうして? りかちゃんは悪くないのに、だって」
 結局、漫画の通りだ。りかちゃんは、悪くないのに、幸せでない形で残されてしまう。
「つらいです悲しいです。今日帰ってから泣きます、でも!」
 でもね、とりかちゃんは続けた。
「ふたりは、やっぱりお似合いですから」
 わたしは何も言えなくて、どこを見ればいいのかわからなくなっていた。りかちゃんの声ははっきりと聞こえてきて、意味もわかるし心に残るし、でもどう動けばいいのかわからなかった。わたしは、この心をどう動かせばいいのだろう。
「かおりさん、高明さんと付き合ってください。わたしは、ふたりが恋人でいて欲しい」
 わたしみたいな人が増えないうちに。りかちゃんの言葉は、家に帰ってもまだぐるぐると残っていた。
 最後まで泣かなかったりかちゃんを、すごいと思う。わたしならきっと泣いていた。りかちゃんはすごい人だ。わたしよりずっと大人で、素敵な人だ。だからこそ、かわいそうで申し訳なくて謝りたくて、でもりかちゃんはそうするなと言う。そうするくらいなら、高明と恋人になれ、と。


 昨日は家族でご飯を食べた。高明とは会っていない。
「あんた、今日どうするの? 何か予定ある?」
 みかこさんが朝、わたしを起こすときに聞いてきた。
「何にも、ない」
 高明たちがデートをするなら、どこか、出会わない場所に行こうと思っていた。でも、そうはならなかったし、こんな風になった後だから、高明ともどうするかは話し合っていない。
「あらまぁ、寂しいイヴね。じゃあまぁ、高明くんとごゆっくり。あれ? 高明くんもデートかな?」
 言いながらみかこさんは出て行ってしまったので、わたしは何も言えなかった。
 カーテンを開けるといい天気で、空が青くて高く、太陽を見て、わたしはあくびをした。あぁクリスマスなんて何もない、ただの週末じゃないか。どうしてクリスチャンでもないのにクリスマスを喜ぶのだろう。無邪気にお祭り的な日が増えるのは嬉しいことではあるけれど、やっぱり少し、不思議だ。
 起きて朝ご飯を食べて、休みだからと朝から家中の掃除をして、お昼ご飯を食べて、そして何もすることがなくなった。出かける気にもならない。
 ベッドで横になっていたら眠ってしまった。目が覚めたら四時過ぎ。……あぁ、こんなものか。
 もうすぐ夕焼けだな、と窓に寄りかかって空を見ていたら、高明が見えた。わたしの家を通り過ぎ、一度自分の家に帰り、またすぐに出てきた。わたしには気付かないようで、そのままわたしの家にやってきた。チャイム、階段をのぼってくる音。それからノック。
「いらっしゃい」
「おぅ」
 高明は、暖かそうな茶色のコートを着て、手にはコンビニの袋を持っていた。
「食べよう」
 中身はヨーグルト。何日かぶりの高明は、何もなかったみたいにそう言った。

「赤梨さんに会ったんだ」
 呼び出されてさ、と高明は言った。
「なんて言ってた?」
「かおりと付き合えって。俺は赤梨さんよりかおりを大切に思ってるからって」
 りかちゃんは、わたしと高明に、同じ話をしたみたいだった。好きと必要であるということ。
「俺、まだわからないんだ。ふられて、赤梨さんに対する気持ち、ちょっと変わったような気もするけど、でも、どきどきするのは変わらない。そんなにすぐ変わるもんじゃないんだと思う。どうなるかは自分でもよくわからない」
 わたしはうなずいた。その通りだと思った。たとえ相手に受け入れられなかったとしても、気持ちはすぐに消えたりはしない。好きだった、という気持ちは嘘ではないから。植物が生長したり雲が流れたりするように、それはとてもゆっくりと動いている。
「かおりのこと好きだけど、それが恋なのか家族愛なのか、わからないんだ。確かに何かあるんだけど、この気持ちをなんて呼べばいいのか、今の俺にはわからない。考えなくちゃいけない、って思う」
 高明は一度床を見て、それからわたしを見た。
「だけど今日赤梨さんに言われて、少しだけ答えがわかったような気がする。ああそうかもって思ったんだ。名前は付けられないけど、俺はただの好きだけじゃなくて、それ以上の大きくて強い気持ちで、かおりを必要としている。それだけは間違いないって、そう思った」
「うん」

 高明は、床に正座したままそう言って、わたしの目を見た。

 高明の今の心がどうなっているのか、わたしにはわからない。わたしへの気持ちとりかちゃんへの気持ち。ふたつの気持ちが分けられないくらいに混ざっているのだと思う。高明は、それをきちんとしなくてはいけない、とわたしは思う。整理した気持ちをりかちゃんに伝えることはないかもしれない。でも自分の中できちんとする。それは多分、振ったり振られたりした人がしなくてはいけないこと、なのだとわたしは思う。

 だけど、高明が今ここにいて、わたしを必要だと言ってくれる、その気持ちはきっと真ん中にある。きちんと終えられた後にも、きっと高明は。
「高明」
「ん」
「それが済んだらわたしと付き合おう。気持ちを整理して、考えて、後悔のないくらいまでちゃんとできたら、その後で」
 わたしは胸に手を当てて、だけれどそうしなくともわかっている。嘘をつくつもりがなければいつだってわかってしまうものなのだ。思うだけで、こんなにも心があたたかい。確かにここにある気持ち。涙が出てくる。高明を傷つけるくらいならわたしを傷つけて欲しい。高明が傍にいて守ってくれるのなら、傷つくことは全然怖くない。そういう矛盾を怖がらない気持ち。あぁここに、今ここにある気持ち。
 わたしの言葉に高明は、素敵な表情でうなずいた。うなずいて、それから、嘘みたいだけど、漫画みたいだけど、高明のお腹がぐーっと鳴った。
「……いや、安心したら、お腹がすいて」
 そう言う高明を見て、わたしは笑う。
「ご飯を、作るよ」
「おう。作ろう作ろう」
「クリスマスイヴだよ。何を食べよう」
「あー、そうか、今日はイヴかぁ。忘れてた。俺にとっては、ただの十二月だ。毎年ちょっとしたプレゼントを贈り合う、ただの十二月」
 クリスマス。高明にとっての。ただの十二月。
 高明の言葉がしみこんできて、どうしてしみこんできたのか理解するのに少し時間がかかった。視線を走らせた中に、確かにその文字はあったはずなのに、どこにあるのかわからない、そういう気分。正解は今のところに必ずあるとわかっているのに。じんわりしみ込んできたそれを、わたしは無理に動かさないで静かに待った。こういうときは慌てて動かない方がいい。正解は、わたしの心の奥深い部分が知っている。
 深呼吸をする。
 
 ――。
 
「あぁわかった」
「何が?」
 正解を見つけた。高明の言葉でわかってしまった。
「クリスマスが、どうして特別なのか」
 恋人同士のクリスマスなのは、きっとクリスマスだからじゃないんだ。大切なのは、クリスマスをどう思うか、ってことなんだ。クリスマスを大切だと思えば大切な一日だし、そういう価値観が一致するから恋人同士で過ごすのだろう。結婚記念日が、夫婦ふたりだけにとって特別な一日であるように、多くの人がクリスマスをそう思う、それだけのこと。
 わたしにとってはやっぱりいつもと同じようにご飯を食べて、そしてちょっとしたプレゼントを渡して、貰う日だ。高明と同じ、それが、わたしのクリスマス。
「高明、これ、プレゼント」
 机の上に置いていたフォトフレームの包みを差し出した。
「あ、うん、ありがとう。えっと、俺」
「いいよ。わたしがあげたかっただけ」
 きっと高明は、りかちゃんの分しか用意してないのだろうと思っていた。思っていたのに。
「いや、あるんだ。赤梨さんにあげるものとは別のだから。でも俺の部屋にあるんだ」
 取ってくる、と高明は一度自分の家に帰っていった。
 窓から高明を見ながら、わたしは思った。
 兄妹と恋人は違うと思う。だから、もしかしたらもう、わたしが高明をお兄ちゃんと呼ぶことはないのかもしれない。でも、それがふたりの関係なら、呼ぶこともあるかもしれない。わからない。わからないけれど、多分、そうやって外からできあがっていくものではないのだと思う。わたしがいて、高明がいて、気持ちの矢印が曖昧に引かれて、そうやって内側からできあがっていったものに名前が付けられるのだ。兄妹と呼ぼうと恋人と呼ぼうと、それは同じこと。名前より前に、わたしたちがいるのだから。
「高明」
 帰ってきた高明に、わたしは言った。
「ん?」
「わたしは高明が好きで、必要だよ。これまで、ずっとそうだったように」
 高明は一瞬驚いた顔をして、照れて、顔を赤くして、それから小さな声で言った。俺も、と。余りにかわいくて、思わず頭を撫でたら、大きな手で撫で返された。
 あぁ、うん。
 これが、わたしたちだ。
 わたしたちの、クリスマス。