表紙 → 物語

春風が吹いていた

2004/8/6

 寒くてシャワーの温度をまた少し上げた。熱い水が身体をたたいて、それでも寒くて寒くて仕方がなかった。皮膚が赤くなっていて、やっと寒がっているのは身体じゃないと気付いた。でもわたしは震えている。力を込めても手は小刻みに震え、定まらない。
 シャワーの勢いが弱まった。左手がいつのまにか、シャワーホースを握り締めていた。めいっぱい、そして震えながら。壁に背を預け、足元を見る。うずくまってしまえばいいのに、わたしは頑なに立ちたがっている。まだだめだ。うずくまってはいけない。まだ立てる。きゅっとシャワーを止めた。息があがっている。わたしは口で息をしていた。ドアを開け、身体を拭いて服を身に着けても、まだ息苦しかった。シャワーはとても体力を奪うと改めて思う。
 部屋は真っ暗。ベッドではなく、フローリングの床に寝転んだ。大丈夫、と言ってくれる誰かを頭の中に探したけれど、一番言ってくれそうな人は、わたしの隣にはいない。
 うつ伏せから仰向けに寝返りを打った。わたしの中の何かが動いて、不意に部屋の明かりを点ける気になった。いつものことだけど、その明るさに、というより、それまでの暗さに驚く。床に寝転ぶのが遠くて、今度はベッドの上に横になった。白い蛍光灯が目にしみてくる。今日は土曜日で、大学は休みだった。朝は8時ごろ起きた。なのに、今はもう夜。 わたしは今日一日、何をして過ごしたのだろう。思い出そうとしてみたけれど、食事や洗濯、といったこまごましたものしか思い出せなかった。どれも一日を消費するには短すぎる用事だ。何もしなかったのかもしれない。明日は日曜日で、あさっては月曜日。月曜日になったら学校に行かなくてはいけない。

 どれくらいそうして蛍光灯の光を見ていたのかわからないけれど、気が付くとお腹が空いていた。苦しい。思えばシャワーを浴びていたころからお腹が鳴っていたような気もする。今は音も無く、ただひもじくて苦しいだけだった。



 ふと、目が覚めた。眠ってしまっていたことに、少ししてから気付いた。時計は午後9時をさしていた。トイレに行くために立ち上がり、わたしはやっと何かを食べる気になった。母が持たせてくれた買い置きのレトルトの中から、電子レンジで暖めるだけでできあがるリゾットを取り出した。電子レンジは思ったより大きな電子音を立て、リゾットの容器がオレンジ色に回り始めた。トイレから出てきて電子レンジを見たけれど、当然まだできていない。今座ったり寝転んだりすると、また中々起き上がらないことがわかっていたので、立ったままでいたかった。部屋を見回したわたしは、まだ取り込まれていないベランダの洗濯物を見つけた。
 ベランダは暖かくてやさしい風が吹いていた。何か草のにおいがした。この部屋は4階で、そこはわたしが今までに住んだどの家よりも高い場所だった。駅付近のビルが明るくて、視線を足元に向けるに連れ光は減っている。その明かりひとつひとつに人が住んでいるのかと思うと、頭がくらくらした。また少し強い風が吹いて、わたしはそれに夏の空気を感じた。夏の夜の、散歩に行きたくなるような空気だ。花火がしたい、とそう思う。花火大会を見に行ってもいいし、公園で線香花火でもいい。夏の空気と、光と火の溶け合うさまを感じたい。電子レンジが歌うように鳴ってリゾットの出来上がりを知らせてくれた。
 部屋の中に戻ると、かすかにクリームのよい香りがする。テーブルの上にランチョンマットを敷いて、グラスにオレンジジュースと、フォークを用意して、わたしはいただきますと言った。まるで朝食か昼食だけど、レトルトにしてはちゃんとした食事だと思った。湯気が余計においしそうな感じを強める。実家では行儀が悪いと叱られるのでしないけれど、わたしは何か本を読みながらする食事が好きだ。小説やまんが。中学生のころだったか、父に怒られたときわたしは言った。
「でも父さんだって新聞を読んでいるじゃない。新聞はよくてどうして文庫本はいけないの?」
 ひとり暮らしを始めてから何度かその時のことを思い出すのだけど、未だに、父がわたしの言葉になんと答えたかを思い出せないでいる。
 そうしてリゾットをほとんど食べ終わったころ、ドアチャイムが鳴った。二度ほどピンポンピンポンと。時刻は夜の10時過ぎ。夜のドアチャイムはどうしてこんなにも怖いのだろう。誰だろう、とわたしはドアの覗き窓を見た。が、訪ねてきた誰かの端しか見えなかった。チェーンをつけたまま、ドアを開けた。
「あの、野宮さん? 新田です。あの、同じ学科の」
 その声は女の人で、同じ学科に新田という人がいたかは憶えていなかったけれど、とりあえず怪しい人ではないだろうと判断した。ちょっと待ってね、と一度ドアを閉めて急いでチェーンを外す。これもいつものことだけど、焦った。ドアを長い間閉めるなんて、まるで追い返したがっているみたい、とそう思うから。
「こんばんは」
 そこにいた女の子には見覚えがあって、言われてみれば同じ学科にいたような気がする。悪いとは思うのだけれど、人の顔を憶えるのが苦手なわたしの記憶はその程度だった。彼女はわたしより少し背が低く、右手に白い紙と、左手で抱えるようにして大きくて赤い林檎をふたつ持っていた。また夏に近い空気がわたしの周りを漂ってきた。
「こんばんは」
「あのね、あのね、これ見て」
 彼女の持っていた白い紙。差し出されたそれを見て、それが先日やっと配られたわたしの、わたしたちの学科の名簿であることがわかった。名前と住所と、電話番号と実家の連絡先。電話番号はみんなほとんど携帯電話の番号だ。自分の欄を探して、情報に間違いがないことを確認した。おかしなところは見当たらない。
「わたしのとこ、間違ってないよ」
 顔を上げると新田さんは片手にひとつずつ林檎を持っていた。その様子が何だかかわいらしくて、アダムとイヴの話を思い出した。
「わたしのところも見て!」
 再び名簿に視線を落とし、新田という名前を探す。新田花美という名前はわたしのすぐ上にあった。
「良い名前ね」
 花のように美しく。彼女は少し幼い感じがするけれど、花のように美しく、という表現はぴったりだと思った。新田さんを見ると、顔が赤くて、林檎のようだった。
「ありがとう」
 そううなずいて、「住所のところを見て」と新田さんは言った。彼女の住所を見て、なんとなく彼女の言いたいことを理解した。わたしと新田さんの住所はただ一箇所を除いて同じだった。違うのは最後の部屋番号の部分だけだった。404と405。
「お隣さんなの?」
「そうなの! すごい偶然だよね。出席番号も部屋も隣だなんて」
 大学でも出席番号という言葉を使うのだろうかと思い、わたしは微笑した。
「だから、これ、あげる!」
 と、新田さんは両手を同時に差し出して林檎をくれた。
「ありがとう。お近づきのしるし?」
「うん、そう。これからよろしくお願いします、ってことで」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「それじゃまたね。今度うちにも来てねー」
 新田さんは小さく手を振って隣の部屋に帰っていった。わたしもドアを閉めて部屋に戻る。少し冷めた食べかけのリゾットを食べて、わたしはもらったばかりの林檎を食べることにした。これは母親が怒るのだけれど、わたしは皮むき器を使って林檎を剥いた。包丁でも剥けないことは無いのだけれど、どうせなら綺麗に簡単に剥ける方がいいに決まっている。包丁を使うのは、食べやすい大きさに切るときと、芯を取るときだけだ。半分はラップに包んで冷蔵庫に入れた。林檎はいつもより甘酸っぱいような気がした。
 することも思いつかなかったので、眠ることにした。心の奥底に何かわくわくする感情がさらさらと溜まっていた。それはきっと新田さんとの出会いだろう。
わたしは人の出会いを覚えていられない。仲の良い人だって、気が付いてみればいつの間にか仲良くなっているという感じで、最初どんな風に話しかけたのか、とか最初はなんて呼んでいたか、といったことをちっとも思い出せない。人の出会いなんて全部そんなものだろうと思っていたのだけれど、住所の偶然という新田さんとの出会いは忘れないような気がした。



 昨日何もしなかったというのに身体は疲れていたらしく、起きたのは10時過ぎだった。カーテンを引くと太陽が強く光っていた。今日は何をしよう、と前向きな気持ちが湧いてきた。多分、これは朝の力だ。
 食パンを焼いてトーストを食べ、わたしは手始めに洗濯機を回すことにした。ひとり暮らしの洗濯物というのはびっくりするくらいに少ない。ちょうどアルトリコーダーの後にソプラノリコーダーを触った時のような驚き。
 ベランダの太陽が少し林檎に届いて、とてもおいしそうに光らせていた。朝ごはんを食べたばかりだというのに、わたしは林檎を食べることにした。なんとなく、今食べると、いつもよりおいしいんじゃないかという予感がした。林檎を食べながら、昨日の新田さん訪問が夢でないことを実感した。甘くてすっぱくて、おいしい林檎だった。冷蔵庫に、半分の林檎が残っていることに気付いたのは、全部食べ終わってからだった。

 ベッドに寝転んでいただけのつもりだったのに、またいつの間にかうとうとしてしまっていた。時計は正午過ぎ。さすがにお腹は減っていない。お昼ごはんを食べないお昼時はとても暇だと思う。午後からは何をしよう。朝の前向きな力は、半分くらいに減ってしまった。
 買い物に行こう、と思い立ったのは1時少し前。昨日食べたリゾットはおいしかったのだけど、どうやらひとつしか入っていなかったらしい。レトルトの買い置きもだいぶ減っていたので、まとめて買いに行こうと決めた。最寄のスーパーは自転車で10分くらいの位置だけど、わたしは歩いていくことにした。いい天気だったし、特に急ぐ理由もなかったから。公園を通り過ぎるとき、子供の笑い声が聞こえた。 お昼ごはんで家に帰っているのか、放置されているおもちゃの数に比べ、子供の数は少なかった。それでも弾けるように子供たちは駆け回っている。少し大きな道に出て、中学校の脇を過ぎて、わたしはスーパーに入る。特に大きいというわけではないけれど、立地がいいのか、人はたくさんいた。わたしは新聞をとっていないのでわからないが、もしかすると今日は広告が入っていたのかもしれない。ぶつかりそうになりながらレトルトコーナーを目指した。 リゾットは同じシリーズが7種類くらいあって、どれも同じようにおいしそうに見えた。どうせ食べるものだから、とひとつずつすべての種類をかごに入れた。 レジはどの列も長い。なるべく年配の方がレジを打っている列を探す。偏見かもしれないけれど、年配の方はレジ打ちが早いような気がする。
「いらっしゃいませ!」
 びっくりするほど大きな声で言われて、わたしは思わず微笑んだ。お金を払って買ったものを袋に入れた。買ったのは本当にレトルト食品だけで、後は夕方にもう一度買いに来ようと思ったからだ。夕方はお惣菜が割引されているかもしれないし、何よりいっぺんに買うのは少し重いから。
 公園には、先ほどより人が増えていた。子供もたくさんいたし、それを見守るお父さんが結構いた。日曜日なんだなー、と自覚する。わたしはまた少し笑顔になる。
 家に帰って洗濯物を取り込んだ。今度は掛け布団を干してみた。太陽がもったいない気がしたから。
 久しぶりに新しい本を読みたくなった。わたしは同じ本を何度も何度も読むので、あまり新しい本は買わない。とても気分の良い金曜日の夕方だとか、誰かの誕生日だとか、お祭りの日とか、花火をする日の夕方だとか、そんな日にだけ本屋に寄って本を買っている。今日はお祭りの日でも花火の日でも金曜日でもなかったけれど、今は本を買うときだと思った。それはおいしい林檎の予感と同じくらいの確信。
 すぐに本屋に出かけた。本屋はとても近くにある。というより、引っ越すとき、本屋が近い場所の部屋を選んだ。本屋はいつもとても落ち着く雰囲気で、わたしの好きな場所のひとつだ。あまり本を買わないくせに、本屋の近くの部屋を選んだのは、いつでも気分の悪いときそこに逃げ出せるためだ。まるで「ティファニーで朝食を」みたいに。この話もとても好きなのだけど、映画版ではオードリーヘップバーンが本当にティファニーの前でご飯を食べていて笑ってしまった。わたしが「本屋で朝食を」というお話を書いて映画化されたら、本当に役者さんが本屋でご飯を食べるのだろうか。
 わたしはじっくり本を選んだ。何か予感のようなものが働いて、わたしは買う本を決める。大抵は一冊だけど、時々二冊買うこともある。こういう予感によって選ばれた本はどれもおもしろくて、わたしはこの予感をとても信頼している。今日買ったのは、「はだしの魔法使い」という短い薄い小説。読む前から物語は始まっている、と本を持った瞬間からいつもそう感じる。早く読み始めたい。



 一度読み終えて、少し休憩しようか、とわたしはベッドから立ち上がる。そういえば布団を取り込まなくてはいけない。ベランダに立ったわたしは少しばかり懐かしさを感じる。布団のにおいがそう感じさせたのかもしれない。空がうっすら青くて、秋みたいだった。もうすぐ夏だというのに。太陽はきっともうすぐ沈んでしまう。日が沈めば夜が来るし、夜の次は朝で、それの繰り返し。ずっとずっと。わたしが何したってどこにいたって変わらない。少し肌寒さを感じてわたしは部屋に入った。


 夕方、もう一度行くつもりだったスーパーには、行かないことにした。行く気がなくなってしまった。面倒くさいし、外はもうすぐ暗くなるし、何より寒い。
 もうすぐ7時になる。壁にかけた時計の秒針をわたしはベッドに寝転んで見ていた。あと5秒で7時。……3、2、1。ゼロと思った瞬間、ドアチャイムが鳴った。驚いてわたしは立ち上がった。足音を立てないように玄関に行き、覗き窓を見る。新田さんがいた。エプロンをつけている。向こうからわたしが見えるかのようにひらひらと手を振っている。ドアを開けた。
「こんばんは」
「こんばんは。晩ご飯食べた? 良かったらいっしょにどう? 肉じゃがを作ってみたんだけど」
「いいの?」
「うん。初めて作ったから味はちょっと心配だけど」
 ごちそうになろうかな、とわたしはうなずいた。玄関の鍵を持って、ごみを捨てに行くとき用のサンダルを履いた。新田さんもサンダルを履いていた。多分ここが、近所のいいところのひとつだ。


「どうぞ、あがって」
 お邪魔しますとわたしは新田さんに続く。わたしの部屋とは正反対の構造で、くらくらした。まるで鏡の中の世界だ。
「どしたの?」
「いや、わたしの部屋と正反対だなって」
 新田さんは手を洗っていたので、わたしも手を洗わせてもらった。
「野宮さんってさ」
 ご飯をお茶碗によそいながら新田さんは言った。昨日は幼く見えたけれど、今はまるでお母さんみたいだ、とそう思う。「手伝っていい?」と、わたしは用意されていたお碗に味噌汁を注いだ。
「下の名前、なんて読むの? しん? のぶ?」
「どっちもはずれです。正解はしの」
「しのかぁ。しのちゃん」
 新田さんがふたつのお茶碗をテーブルの上に運んで、それからわたしの注いだ味噌汁を持っていく。戻ってきた新田さんは肉じゃがをよそい、わたしはそれを運ぶ。ふと、台所と部屋の境目で新田さんが振り返った。
「のみやしのさん」
 新田さんはなぜか、背筋を伸ばして「気を付け」の格好をしている。
「はい」
「えっと、いい名前だね」
「……ありがとう。どしてそんなに改まってるの?」
 新田さんはお箸を準備しながら答えた。
「うん、昨日褒めてくれたから。でも人の名前を褒めるのって難しいね。恥ずかしい」
 もしかしたら褒められるのよりも恥ずかしいかもしれない、と新田さんは笑った。
「じゃ、ごはんにしよう」
 わたしたちは、ふたりでいただきますと言った。






「ちょっと暑いね。もうすぐ夏かな」
 ご飯を食べ終わって、お茶碗を下げて、新田さんは言った。
「窓開けていい?」
 ベランダの方を指差しながら聞いたら、新田さんはどうぞ、と言ってくれた。
 ベランダには「すのこ」のようなものが敷き詰められていたので、わたしはベランダに出てみた。わたしの家と変わらないはずなのに、どこか景色は違って見えた。
「涼しい?」
 新田さんもベランダに出てきたので、わたしは少し寄って隣を開けた。新田さんが隣でベランダの手すりにもたれかかったのを見て、わたしも真似をしてもたれかかる。
「新田さん」
「ん?」
 わたしは景色を見て、それから新田さんを見た。
「今度はわたしの家に遊びに来てね。それとさ、果物は何が好き?」
「くだもの? 林檎とか、いちごとか、みかんとか、なし、かな? あ、柿も好き。あ、バナナも」
 わかった、とわたしは微笑んだ。
「あの、し……のみや、さん」
 新田さんは不思議に言いよどんでわたしを呼んだ。見ると、こっちを向いて、少しうつむいている。暗いのでよくわからないけれど、照れているのだと気付いた。
「花美ちゃん」
「え! あ、はい!」
「花美ちゃんて呼んでいい?」
「うんうん、もちろん! えっと、その」
「わたしもしのって呼んでね」
 新田さん、花美ちゃんはまた何度かうなずいて、また手すりにもたれかかる。
 風が吹いた。昨日と同じような、春と夏の間のあたたかい風。わたしは前髪を耳にかけなおした。
「なんだかさ」
 花美ちゃんが遠くを見ながら言った。
「花火がしたいね」
 それを聞いて、わたしは思わず笑い出してしまった。

■履歴

2004/3/22 書きました。
2004/8/6 少しだけ修正しました。