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アリアドネの赤い糸

2003/10/16

その糸は  導く  あなたを  迷宮深く     なめらかに  丁寧に     或いは     赤く  赤く

 勇敢なテセウスがその島に着いたとき、空は暗く、今にも雨が降り雷が轟きそうでした。
港に飾られた数限りない花たちも、どこか空に怯えているようでした。 姫や兵士達が歓迎の声を上げる中、ミノス王だけは何も言わず、愁いを帯びた瞳でテセウスを見つめていました。
「ようこそ、クレタ島へ」
 こうしてテセウスはクレタ島を訪れたのでした。

 さて、その夜、テセウスはミノス王の娘のひとりアリアドネの訪ないを受けました。
「テセウス様、心のほどはいかがですか」
 アリアドネは静かな声で尋ねます。
「少し怖くはあります。しかしやらねばなりません」
 揺ぎ無い決意を見て、アリアドネは懐から糸球を取り出しました。 それは太陽の光と月の光を交互に紡いだ魔法の糸球でした。切れず絡まず軽く、そしてわずかに光っています。
「これを目印に戻っておいでくださいませ。迷宮は暗く迷わずにはいられないと申します」
 テセウスを見つめるアリアドネの瞳には、熱いものがこもっていました。 アリアドネは、なぜなら、強い瞳を持つテセウスを一目見た途端、心奪われてしまっていたのでした。

 次の日の朝、空は昨日の曇天が嘘のように晴れ渡っていました。勇敢なテセウスはみなの歓声を受けて迷宮に向けて歩き出しました。 腰には一振りの剣を佩いています。迷宮に近づくに連れ、森は深くなり、後ろから聞こえる歓声も遠く聞こえなくなってしまいました。
 迷宮の入り口が大きく見えたとき、テセウスはそこにアリアドネの姿を認めることができました。
「アリアドネ様……」
 アリアドネは何か言いかけ、口を開きますが、声を失ったかのように何も言いません。
「アリアドネ様、これを……」
 テセウスは糸球を取り出し、片方の端をアリアドネに渡しました。
「どうか迷わぬように、これを与っていてください」
 アリアドネは頷き、自らの小指にそれを結びました。テセウスもそれを見て、もう片方の端を自らの小指に結わえます。 行って参ります、とテセウスは言い、迷宮の扉を開きました。魔物が口を開くように扉が古びた咆哮を上げます。
「お気をつけて……」 
 テセウスがその口に飲み込まれていく後姿を見て、アリアドネはやっとそれだけ口にしました。

 迷宮の中は暗く、とても静かでした。入り口から遠ざかるに連れ太陽の光は薄くなってゆきます。 テセウスの息遣いと足音だけがあたりに響いています。不思議なことに、テセウスの歩みに合わせて壁のたいまつが灯ってゆきます。 ひとたび角を曲がると、そこはもう間違いなく迷宮の中でした。教えられた数の曲がり角を曲がっているはずなのに、歩んでいる道が正しいのか、テセウスの自信は揺らいでいきます。 不安になったテセウスが振り返ると、アリアドネのくれた糸がぼんやりと光を放っています。そしてそのわずかな光が――もちろんたいまつ以上に――テセウスを勇気付けるのでした。

 いかほどの時間が経ったでしょう。テセウスは進んで行きます。突如、獣の咆哮が迷宮中に響き渡りました。 地の底から轟いてくるような、重い咆哮でした。心なしか暗闇が深くなったような気さえします。
 テセウスは知らず立ち止まり、息を飲み込みました。体中、汗が噴出していることに、テセウスはやっと気付きました。 振り返り、そして小指の糸に励まされ、テセウスは再び歩き出しました。

 やがて、テセウスは大きな扉の前にたどり着きました。
 
 扉の、向こうに、何か、いる、気、配。
 
 それは例えようの無い威圧感。テセウスは、自らが矮小であることを否応無く自覚しました。
 しかし同時に、テセウスは、進まねばならぬことを自覚しました。小指の糸が光っています。
 テセウスは扉を開けました。

 そこにいたもの。闇に赤く光る、獣の目。それは吼え、テセウスは身体の芯が無くなった心地でした。
 それは片手に大人ほどある斧を持ち、立ち上がりました。テセウスを認めて、斧を振り下ろしてきました。 テセウスはからくも避けます。が、テセウスにそれが幸いしました。鍛えぬかれた戦士の身体は、自然すべきことを覚えていました。
 斧や拳を避け、時に受け止め、テセウスは切りつけていきます。獣はアリアドネの糸がまぶしいらしく、時折それを裁とうと斧を振り下ろしますが、糸は不思議と切れようとはしませんでした。
 そしてついに、テセウスの剣が獣の喉を切り裂きました。ばぢぢっ、と何かが弾けるような音がして、獣は床に倒れ伏しました。 するとどうでしょう、獣はふたつに分かれ、大きな雄牛と、喉を裂かれた人間の青年の姿に変わりました。
「父上……」
 青年のしぼり出すようなその声は、確かにそう言いました。獣、いえ不遇の王子アステリオスは息を引き取ったのです。 テセウスはそれを見て敬礼をし、剣の血を振り払いました。途端、床の血は薄暗い闇の中文字を描き始めました。
 
 その糸 汝が運命 運命の糸
 導く先は 誰知らず
 明けの空果て 或いは
 
 文字はそこで途絶え、大地に染み入る雨のようにやがて消えていってしまいました。血が消えていった瞬間、テセウスの視界を光が覆いました。 光が収まりテセウスが再び目を開いた時、そこは最早暗く不吉な迷宮ではありませんでした。明るく清潔な白亜の城でした。 辺りは太陽の光をいっぱいに浴びたかのように輝き、夜の何ものも、暗き一切のものも受け付けないかのようでした。
 すべきことを成したテセウスは帰還しようと振り返り、そして絶望しました。糸が、見えなかったのです。 白き壁、床にまぎれてアリアドネの糸は見分けがつきませんでした。テセウスは何とか糸を手で探りながら、ゆっくりと歩き出し始めました。 どれほどの時間がかかるものか、疲れ果てたテセウスには想像もつきませんでした。  
 

 三日三晩経っても、テセウスは帰ってはきませんでした。

 アリアドネもまた絶望しました。テセウスはあの獣に倒されてしまったのでしょう。気を紛らわせようと何かをしても、全てが、現実であることを強要します。 アリアドネはそして手首を切って自殺を図りました。滴る血は純白の糸をどんどんと赤く染めて行きました。

 テセウスは白き迷宮の中で倒れ付していました。どれほどの時間が経ったのか、わかりません。この迷宮の中で果てることを覚悟したそのとき、道が見えました。 すなわち糸が赤く染まっているのです。テセウスは立ち上がり、再び歩き始めました。

 そしてテセウスはついに迷宮の出口にたどり着き、ミノス王の城に向かいました。しかし、帰還した英雄テセウスを出迎えたのは歓声ではなく、アリアドネの死という悲報でした。 冷たくなった可愛そうなアリアドネを前にして、テセウスはやっと糸の赤が血であることを知りました。アリアドネの小指に結び付けられた赤い糸を見て、テセウスはあの獣の最後の言葉を思い出しました。 疲れきったテセウスはそして、祈るようにアリアドネの手を取り、静かに息を引き取りました。  
 

 時は流れ、ここにアル・リ・アン・デ(『豊かな麦の実りをもたらす母』の意)、すなわちアリデラと呼ばれる少女がいました。たくましい父とやさしい母親に育てられたアリデラの小指には、赤い糸が結ばれています。 不思議なことにアリデラ以外には見えないそうですが、アリデラにはその糸が幸せへつながっているような気がしてなりませんでした。
 まだ見ぬ誰かにつながっている、ような。

おしまい